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こだいらぽんたの「基礎学力」勉強日記

基礎学力(高卒程度)を身につけたい。読書も旅もしたい。フットボールも見たい。

17日目 読書ノート マルクス=アウレーリウス「自省録」(神谷美恵子訳)

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マルクス=アウレーリウス「自省録」(神谷美恵子訳 岩波文庫

 

青木先生が「実況中継」で「一読に値する」と推していた、教父アウグスティヌスの「自省録」。そこまでお勧めの古典ならぜひ読みたい。しかし「自省録」は「自省録」でも、私は間違えて、マルクス=アウレリウス=アントニヌスの「自省録」を買ってしまった。仕方がない。もったいないので読むことにした。

ところが、これが意外にも素晴らしい本だった。1800年以上も前の人間の書いたものだとは思えなかった。読んでよかった。

 

マルクス=アウレリウス=アントニヌスはローマ五賢帝のひとりで、ローマ帝国の平和に陰りが見え始めたときに皇帝の重責につかなければならなかった。この頃のローマは災難続きだ。ゲルマン民族やパルティア人が攻めてきたり、ティベリヌ川が氾濫したり、地震の災害にみまわれたり、ペストが大流行したり、とんでもない時代だった。他民族の侵入による戦争で国庫が窮すると、マルクス=アウレリウスは自分の財宝を競売にかけて、戦争に備えたのだという。

こんな困難な時代に皇帝なんてやりたくなかっただろう。実際、マルクスは学問の道に進みたかったらしい。しかし、マルクスはどこにも逃げださなかった。過酷な現実の世界を引き受け、生き抜いた姿は実に潔い。

世の中には自分の努力でどうにかなることと、どんなに努力してもどうにもならないことがある。そこを区別しろと、マルクスは言う。

「他人の厚顔無恥に腹の立つとき、ただちに自ら問うてみよ、『世の中に恥知らずの人間が存在しないということがありうるだろうか』と。ありえない。それならばありえぬことを求めるな。その人間は世の中に存在せざるを得ない無知な人びとの一人なのだ」(184ページ)

「『この胡瓜はにがい。』棄てるがいい。『道に茨(いばら)がある。』避けるがいい。それで充分だ。『なぜこんなものが世の中にあるんだろう』などと加えるな

(160ページ)

「君の全生涯を心に思い浮かべて気持をかき乱すな。どんな苦労が、どれほどの苦労が待っているだろう、と心の中で推測するな」(154ページ)

よく「人間関係に疲れた時どうするべきか」とか「困った人との付き合い方」のようなタイトルの本を目にすることがあるが、この本を参考に書いているのではないかと思うような内容なのだ。他人は変えられない。波長が合わないなら避けろ。アイツは自分の悪口を言っているに違いない、などと余計なことを勝手な想像力で付け加えるな。マルクスのことばは現在でも十分通用する。

 

「自省録」では「死とは何か」についての考察も繰り返し語られる。戦争が日常茶飯事だったローマでは、死は今よりももっと身近なものだったに違いない。

マルクスによれば、三年でこの世を去った人間も、百年生きて去った人間も、人生の意味は同じなのだという。最後の章で、マルクスは人生を舞台にたとえている。その舞台の中で、寿命が短かった者は「自分は五幕演じることなく、三幕しか演じませんでした」と言うかもしれない。

「よろしい。だが人生においては、三幕でも一つの完全な劇となるのだ。」そして、この世に生まれてきたことに対しても、この世を去って行くことに対しても、「君はそのいずれにたいしても責任はない。だから満足して去って行くがよい」(244ページ)思わず涙が出そうになった。

 

今日はサッカーを見に行った。1999年から応援し続けているチームは快勝。最高の気分だ。

今日の勉強日記はお休みだ。

 

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