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こだいらぽんたの「基礎学力」勉強日記

基礎学力(高卒程度)を身につけたい。読書も旅もしたい。フットボールも見たい。

「悪はどこから来たのか?善を創造したのが神ならば、悪を作ったのも神なのか?」 読書ノート アウグスティヌス「告白Ⅱ」(44日目)

読書ノート

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アウグスティヌス「告白Ⅱ」(山田晶訳 中公文庫)

アウグスティヌス北アフリカのタガステに生まれた。カルタゴに遊学し、マニ教に入信。その後、修辞学をカルタゴやローマで教え、そして修辞学教授としてミラノへと渡った。ミラノで出会った司教アンブロシウスの影響で、カトリックの教えに目覚めていく。

1.マニ教カトリック教会への攻撃に対して反論したアウグスティヌス

マニ教は「神がこの世を創造したのなら、この世の悪を創造したのも神なのか?おかしいじゃないか」と「旧約聖書」を攻撃し、それを認めるカトリック教会を非難した。もっともな批判だ。この疑問に対するアウグスティヌスの答えはこうだ。

「悪なるものは、つきつめていけば完全な無になってしまうような、善の欠如にほかならない」(「告白Ⅰ」121~122ページ)

「悪はどこから来るのか?」については興味があったので、このあたりは何度も読んだ。しかし基礎学力と読解力がないせいか、それともキリスト教徒でないせいか、「善の欠如」の理屈が私にはよくわからなかった。

この世で神が作ったものはすべて善である。悪は実体があるわけではない。実際に身体を持つ「悪魔」みたいなものがいると考えるからわからなくなるのだ。悪は人間の自由意志から生まれるのだ、アウグスティヌスは言うのだが。

「私は、不義とは何かとたずねてみて、それが実在するものではなく、むしろ至高の実在である神、あなたからそむいて、もっとも低いものへと落ちてゆき、内なる自己を投げすてて、外部に向かってふくれあがってゆく転倒した意思にほかならない、ということを悟りました」(「告白Ⅱ」54ページ)

「人間というのはろくでもないものなのだから、とんでもない悪を生み出すことがある。自分自身の内面をしっかりと見つめ、同時に神様にしっかりと向き合うことを忘れてはいけないよ」らしきことを言っていることはわかった。しかし、そのろくでもない人間を作ったのは誰かというと・・・と考え始めると、私の頭では把握しきれない。わからないものはわからない。仕方がない。

マニ教はもうひとつ、「人間が神の似姿として作られたとしたら、神には髪や爪があるということか?」とキリスト教を攻撃している。しかし、アウグスティヌスはアンブロシウスの説教を聞いて、「人間が神の似姿として作られた」という意味が、実在する肉体の意味ではなく、人間の精神の意味であることを知る。

「(動物とは違って)人間は問いを発し、神の見えないところを造られたものを通じて悟り、あきらかに見ることができます」(238ページ「告白Ⅱ」)

これは「悪はどこから来たのか」という問題に比べて、ぼんやりとわかるような気がする。それに「似てる」だけで、「そのものだ」とは言っていない。

それにしても、神学はキツい学問だと思った。形のない、見えない世界をぐっと捕まえる才能がないとつらい。「どうでもいいことばかりじゃないか、理屈ばかりこねるな!」と叫びだしたくなる。(笑)山田晶先生のていねいな注釈がなかったらとっくに投げ出していたことだろう。

 

2.「告白」の一番有名な場面

アウグスティヌスが回心する場面は「有名」らしいのだが、私はこの本を読んで初めて知った。マニ教から離れ、カトリック教の真理を知るようになったアウグスティヌスはもっと生活を改めようとする。しかし神にすべてを捧げる生活をするべく回心しようとしても、心の声がなかなかそうしろと告げてくれない。アウグスティヌスは自分の気持ちに真っ正直だ。この状態がつらくて悩んで悩み抜いて、ついに庭で大泣きしていたとき、隣の家から声が聞こえた。

「隣の家から、くりかえしうたうような調子で、少年か少女か知りませんが、『とれ、よめ。とれ、よめ』という声が聞こえたのです。(中略)私はどっとあふれでる涙をおさえて立ちあがりました。これは聖書をひらいて、最初に目にとまった章を読めとの神の命令にちがいないと解釈したのです」(137~138ページ「告白Ⅱ」)

そこでアウグスティヌスは聖書を手に取り、パウロ書簡に書かれたことばを読むことで完全に回心する。

「『とれ、よめ』というのは文学的虚構なんじゃないか」とか「空耳なんじゃないか」とか、歴史家の中では多くの詮索があるらしい。こんなことを詮索する人がいることにびっくりだ。空耳だろうが何だろうが、アウグスティヌスがそのように聞こえたのだから、それが真実なのだ。たとえば私たちだって、歌のフレーズや小説の一節や、人の何気ないことばに励まされたりヒントを得たりすることはよくある。アーティストは全く違った意図で歌詞を書いたのかもしれないし、ことばを発した人だって全く違うつもりで言ったのかもしれない。でも受け取る人がそのように受け取ったのなら、そのことばはその人のものになる。

とにかく、私にとっては初耳だった「有名」な部分に触れることができてよかった。そして、信じているかいないかあやふやなものを、軽々しく「信じている」と言ってはいけない。アウグスティヌスの書を読んで、そのように思った。

 

 「名前は知られているがあまり読まれていない古典」に挑戦するのは疲れるが、楽しいことは楽しい。脳の筋トレをやっている気分になる。ネットであらすじを調べても読んだことにはならない。原典にあたることを何よりも大事にしよう。(最終巻「告白Ⅲ」に続く)

 

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