こだいらぽんたの「基礎学力」勉強日記

基礎学力(高卒程度)を身につけたい。読書も旅もしたい。フットボールも見たい。

イスラーム教はキリスト教に似ているようで、やっぱり似ていなかった。 読書ノート 井筒俊彦「イスラーム文化」(60日目~62日目)

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井筒俊彦イスラーム文化ーその根底にあるものー」(岩波文庫

 

世界史の勉強はイスラーム世界に突入した。せっかくアウグスティヌス著作を読んだのだから、今度はイスラーム教関連の本を読みたいと思い、この本を手に取った。最近、宗教関連の本が続いているが、世界史を勉強しているとなぜか知りたくなってくるのだから仕方がない。

この本は、最高に面白かった。井筒先生の解説は本当にわかりやすい。イスラームについて知りたかったら、この本は超おすすめだ。

また、アウグスティヌスの「告白」を読んだばかりだったので、キリスト教イスラーム教の違いを感じながら読むことができた。キリスト教イスラーム教は似ているとどこかで聞いたことがあるが、このふたつ、実は全く性格の異なる宗教ではないだろうか、というのがこの本を読んで強く感じたことだ。

 

1.「悪はどこから来るのか?」をやはりイスラームも考えていた

イスラーム教では、キリスト教のように人間を神の子などと考えることはしない。神と人間の関係は「主人と奴隷」の関係だという。何をされようが、ただひたすら神の思いのまま。人間が主体的に努力して救済に至ろうという考えは成立しない。イスラームも語源的に「一切を相手に任せること」という意味であり、ムスリムも「絶対帰依者」という意味なのだそうだ。人間の内在する力の働きは全くない。時間も空間も、その瞬間瞬間を神が創造しているのだから、因果律さえも存在しないというのだから、その他力本願ぶりは徹底している。

ところが、やっぱり出てくるのは「それなら悪はどこから来るのか?」問題だ。人間が無力で自由意志を持たないなら、この世の悪事はすべて神の責任ということになってしまう。これはまずい。

「自分では全然悪を為す能力がない人間に強制的に悪をさせておいて、しかもこれを罰するというのでは、いくら何でもひどすぎる」(77ページ)と、初期イスラーム神学で大問題になったというくだりは、申し訳ないが大笑いしてしまった。

結局、悪の問題をイスラームはどのように決着させたのだろうか。そこまではこの本では書かれていなかったが、かなり気になる。

 

2.原罪の観念がないイスラーム

人間は見栄っ張りだ。それに嫉妬深い。とにかく、自分を他人よりも良く見せようとする。また、話を大きくふくらませて、事実とは異なる形で他人に伝えたがる癖も持っている。どんな局面でも自分だけは損をしないように振舞おうとする。人から聞いたことをさも自分が考えたことのように言う。

人間なら誰だってそういう面はあるのではないだろうか。「罪」とか言われるとドキリとするけれど、おそらく「原罪」というのは、人間が逃れようとしても逃れられない悪いクセみたいなものを指しているのだと思う。

ところがイスラーム教は原罪の観念がないというのだ。アダムとイヴの失楽園物語は「コーラン」の中でも出てくるそうだ。ふたりが知恵の木の実を食べたため、神の怒りを買い、楽園を追い出されるところは「旧約聖書」と同じだ。しかし、アッラーの神は言いつけを守らなかった人間どものことを許してしまうのだ。

「『しかし(後に)アーダムは主から(特別のお情けの)言葉を頂戴し、主は御心を直して彼に向かい給うた。まことに主はよく思い直し給う。主は限りなく慈悲深いお方」(二章、三五節)』・・・(中略)・・・こうして人間の本性は元来、清浄で汚れなきものであるとイスラームは考えます。原罪によって本性的に汚されてはいないのですから、苦しみによる浄化は必要としません」(134ページ)

「現実の人間はたしかに悪に染まっており、堕落して汚れたものではあるけれども、それは偶然的な汚れであって、本質的な汚れではない。人間の力で直していけるものである」(137ページ)

「原罪がない」状態がどういうものなのかよくわからない。私の理解では「原罪がない状態」というのは、嫉妬心も、他人のものを欲しがったり羨ましがったりする気持ちも、見栄っ張りな気持ちも「これっぽっちも」持ち合わせていない状態のことなのだが、そんなこと本当にあるのだろうか。そんな人間のどうしようもない部分を、努力で「ましな状態」にすることはできても、「直す」ことなどできるのだろうか。それとも私の原罪の理解が間違っているのだろうか。

 

3.スンニー派シーア派は中身も全然違う

「青木の世界史B実況中継」では、シーア派は「ムハンマドの血を受け継いだ人々にしか指導者としての権威は認めない」という宗派であり、スンニー派(「実況中継」では「スンナ派」)は「ムハンマドの血を受け継いでいなくても指導者として受け入れる」という宗派だと書かれていた。

だが「イスラーム文化」を読むと、スンニー派シーア派は、これで同じイスラームなのかと不思議に思えてしまうほどだ。アラブのスンニー派顕教ペルシャ(イラン)のシーア派密教だという。「コーラン」は暗号だ。暗号は解読されなければならない。その秘密の意味を知ろうとするのが密教的だというのだ。

私は今まで、アラビア半島もイランも一緒くたにしていた。いい加減な感覚で「中東」だと思っていた。ところが世界史を勉強してみると、アラブとペルシャは全く違う文脈で登場するのだ。スンニー派は多数派でシーア派は少数派と言われるが、それ以上に中身が全く違うのだという認識を持った。

 

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