こだいらぽんたの「基礎学力」勉強日記

基礎学力(高卒程度)を身につけたい。読書も旅もしたい。フットボールも見たい。

「ことばで考える世界は虚構である」 読書ノート 梶山雄一・上山春平著『空の論理<中観>ー仏教の思想3-』(207日目)

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梶山雄一・上山春平著『空の論理<中観>ー仏教の思想3-』(角川ソフィア文庫

「一切の存在は空である」とは、大乗仏教の原型をなす『般若経』の中心思想であり、ナーガールジュナ(龍樹)が「空の論理」として理論的に展開した。

この本を読んで、私の思い違いがまたもや発覚した。たとえば「一切の存在は空である」とは「この世の中はすべてが虚しいということ」という意味だと思い込んでいた。また、仏教がこの世を夢や幻とみなしている、という話もどこかで聞いたことがある。この世は夢や幻のごとくはかないものなのだ、ということか?

意味が分からずなんとなくモヤモヤしていたのだが、やっとこの本でその意味が分かったような気がした。

 

「空」というのは「ことばを離れた実在」のことだ。人間は、ことばで世界を認識しようとする。だが、ことばは本当に実在を捉えているだろうか。ことばはものを区別するには役立つけれど、そのくせ何一つ本当のことを表現していないのではないだろうか。

明晰な理解とわれわれが考えているものは、多くの瞬間において断片的におこった多くの判断の記憶による総合であって、それは人間のことばによる構成である。そのときわれわれは最初の実在からは遠く隔たっている。(P75)

ナーガールジュナはことばを本質としたわれわれの認識過程を倒錯だといっているのである。われわれがなすべきことは、思惟・判断から直観の世界へ逆行することだ、と教えているのである。そうすれば、ことばを離れた実在に逢着する。それが空の世界である。(P76)

仏教がこの世を夢や幻だとみなしている、という考えも「ことばでとらえる虚構の世界」との関係においてだ。

この世が幻であり、夢である、ということは、実は、この世を、一義的に固定したことばによって理解しようとすると、断滅でも恒常でもない幻としかいえなくなる、ということでなくてはならない。だからナーガールジュナが、世界は幻だ、といったことは、ことばは幻である、といったことになるのである。夢であり、幻であるものは、真実の不二の、空の世界ではなくて、ことばの世界である。(P161-162)

ことばで考える世界では、ものごとの真実をとらえることはない。真実ではないのだから、夢であり、幻だと考えてよかろう、ということだ。理解できずにモヤモヤしていたことが、またひとつ解消した。

ただし、これだけことばに囲まれて暮らしていると、ことばで考えないことは難しい。ことばで考えずに、ひたすらぼーっと何かを見つめていることが今の自分にあるか?と自らを振り返って思う。

 

ところで、第二部の梶山×上山対談で、輪廻から解脱して無の世界にいくことが仏教の救済の形であることが改めて確認できた。 梶山先生の話がわかりやすい。

インド的な輪廻思想では、天上に生まれてもそれでおしまいにならないのです。天上に生まれるには何かいいことをして、その果報として一度は生まれるのですが、その行った行為の果報には限度があるので、それをエンジョイしつくしてしまうと、もう一度落ちてくるわけです。反対に地獄へ行ってもそれがおしまいじゃない。また上がってくる。だから輪廻というのは六つの世界をぐるぐる回りながら、天に生まれたといっても輪廻から出たわけじゃなく、いつまでたっても続いていく。そういう輪廻という無限の鎖というものを切ってしまって、その外に飛び出すためには、宗教的な解脱というものが必要なわけです。だから本来、天に生まれるとか、極楽に生まれるというのは、相対的な意味しか持ってない。極楽に生まれても極楽でおしまいじゃないんです。(P251)

仏教の極楽や地獄は、キリスト教の天国や地獄とは違う。極楽に行っても地獄に行ってもそこで終わりではない。何度も人間に「生まれ変わってしまう」かもしれない。何度も生まれ変わってしまう輪廻の外に飛び出し、無の世界へと行くこと。これが仏教の救いの形だ。なるほど。

 

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